miraidaikichiのブログ

ロシアンルーレットな未来 ~Будущее за русской рулеткой~

ロシアンルーレットな未来:ものは考えよう

 

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アシャーン

 ロシア着任、単身赴任、そして早々にコロナ、ロックダウン、自粛規制、新しい環境にさらに未経験の状況で、ストレスがたまる要因は沢山ある。

それにどう対処してきたか、しているかについてはブログでも残してはいる。

一方で、これはどんなこともそうなのだが、”ものは考えよう”だということ。

まずは、確かに、自分だけを基軸に今置かれている環境を特にネガティブな方向で考え出せば、いくらだって不安も含めてきりがない。どこまでも奥深く闇の世界に入り込むことだって可能な状況である。

しかし、世の中、全て考えようによってはどうにでもなるという側面がある。

まず一つ、コロナで大変なことは大変であるが、では自分は他人と比較をしてみてそこまで大変なんだろうかという見方がある。世の中には本人、家族、知人がまずこの病気で苦しみ、亡くなった方も非常に多い。またコロナにかからないにせよ、飲食業界や旅行業に代表されるように、仕事がなくなり、また大幅に減ってしまい、生活そのものが維持できなくなってしまっている人がどれだけ世の中にはいるのだろうか。それを考えると、自分の置かれている状況は比較論として悪くはないというか、むしろ幸せなほうだととらえることすらできる。

もう一つはこの自粛期間だ。たしかに10週間もほとんど家を出ることもなく、家族や友人も周りにはいないという状況下だった。それにより目に見えないメンタルダウンは当然あっただろう。

しかし、これも考えようだ。今までの人生で、これだけゆっくりと”通勤”をしないでいられたことがあったろうか。そして海外に来て自宅で仕事をするなどということもある意味特殊かつ貴重な経験だったろう。そしてオフィスに来てみても、ソーシャルディスタンスは守られ、ニューノーマルになったワーキングスペースにおいては、無駄な会議や会話は減っていった事実がある。そう考えると、確かに世の中の変わり目で、それでも仕事を失わないで、ポジティブなワーキングスタイルに対応しようとしている環境にいられること自体が、前述の本当に苦労している人と比較をしてもかなり優遇されかつ幸せな状況に置かれているのだろうと思えるし、思うべきなんだと感じるのだ。

アランの幸福論ではないが、幸せかどうかは自分が決めること。自分がそう思えば幸せなのだ。人は幸せだから笑うのではない、笑うから幸せなのだ。

 

 

未来大吉

ロシアンルーレットな未来:ロックダウン解禁

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    coffe time

実際は9日にロックダウン解禁を早めたのだが、当初の予定では本日をもってロックダウンが解禁となる。仕事という観点では、明日の月曜日から、段階を経てオフィスに社員が戻る。自分自身も週2回のペースでオフィスに行く。

この10週間、最寄のスーパーに週2,3回行く以外は全く自宅を出ていない。

それが10週間続くと、それが習慣として身体に染みついている。

だから、解禁後に、外出することを心待ちにしている気持ちはあるが同時に、身体はもう外出モードにはなっていない。ある意味、外に出るということが億劫になっている。

意図的な切り替えが必要だろう。

ロシアに着任して2か月後にはコロナによる自粛状況だった。その後10週間、”ロシア”を実感できる生活ができていない。また、当初やろうとしてきた様々なことができなくなってしまった。加えて、ロックダウンによる在宅ではとにかくメンタルヘルスを維持するということが大事で、いろいろと意図的に”娯楽”を入れることにしたのである。アマゾンプライムで映画やドラマ、アニメなどを見て、音楽を聴き、ギターを弾き、ゴルフの練習や家を飾ったりしていた。おそらくコロナがなければ、一生できなかったかもしれないような娯楽を尽くしてみた。そのことでメンタルはかなり確保できていた気がする。

一方で、ロックダウンが解禁になった後に、前述の身体の慣れ、習慣があり、それを変えなければならないと感じる。

今日を境に、ロックダウン解除モードに戻す必要がある。

コロナ以前にやっていたことを少しづつ戻す。もちろんウイズコロナで、以前のように自由には行動できないだろう。

ただ、自分自身を元に戻す時間が必要だと思う。そして意外と時間がかかる気がする。いきなり戻すと習慣化された身体が付いていかなくなる。だから、ペース配分を考慮して、またモスクワの名所を見て、外に出て、ロシアについての勉強もしていこう。

50歳も過ぎて半ばになると、残り時間は限られてくる一方、”そんなにあせらなくてもいい”という境地にもなっている。

あせらずに、やれるペースで頑張り、余計なプレッシャーやストレスを感じることをしないようにしていこうと思う。

 

未来大吉

ロシアンルーレットな未来:シニアに向かって両ジリツな人間に

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Bar in Living Room

 「立場」「役職」「人脈」「体制」。50歳も過ぎると、そういう要素が自分に身に付き、そういう要素で仕事ができるようになってくる。それは大企業におけるマネジメントのメリットでもあり、宿命でもあるし、それがいわゆる「実績と経験」ということにもなる。しかし、多くのシニアがなぜ、自分の未来に自信がないのだろうか?それは、定年後に、そのような鎧や環境が一気になくなるからだ。

シニアになるにあたっては、「自律」かつ「自立」の両ジリツな人間になる必要があると思う。「他から支配、制約を受けず自らの規範で動ける自律型人間」と「他への従属から離れて支配、助力なしで存在できる自立型人間」

その両方になるために、晩年にロシアに赴任できたことは大きい。アメリカやヨーロッパの本社などに勤めると、どうしても、仕事のやり方が、冒頭に並べた要素でやることになってしまう。50歳を過ぎて、両ジリツ型人間になるためには、自分の過去の経験や価値観とは全く違った環境に身を置けること。そして、50を100にする仕事ではなく、0から1を生み出す仕事をすること。

そして、組織の立場や組織の人脈だけに頼る仕事をしないこと。

新しい世界を創り出すこと。まるで大卒の人間が社会に出ることに気後れしてしまうようなイメージの世界にあえて身を置くこと。

こういうことが大事な気がする。

今、もし自分が、今までの経験をフル活用できるようなアメリカ、イギリスなどに赴任をして比較的大勢の日本人駐在員と仕事をしていたら、両ジリツの可能性は摘まれた気はする。そこまで自分はストイックじゃない人間だからだ。

 

未来大吉

ロシアンルーレットな未来:自粛解禁

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 6月9日に、モスクワの自粛規制も解禁になった。段階を経て進めていくようだが、基本的には自由に外出できる環境がいきなりやってきた。

10週間も自粛をしていると、いきなり解禁と言われても、足がすくむというか腰が重いというか、待ってましたとばかりに外に出たがるかといえば、案外、自宅にこもってしまうことに慣れてしまっている自分を気付く。

引きこもりにはいろんな要因もあるだろうけど、人は一旦このような生活に慣れてしまうと、そもそもそれ以外にスペースを広げることに対して億劫になるのだろうなと思った。だからこそ、やはり人間社会というのはいくらデジタルが発展しようと、外に出て、人と物理的に交わり、集まる、出会う、触れるということで成り立っているのだろうと改めて感じるのである。

日本人の自分は、外出時にもインストラクション通りに、マスクをし、手袋もはめとしてみたが、外にいるロシア人でそれをしている人の比率は感覚的には20%以下、外を歩いている限りにおいては、ほとんどの人がコロナ以前のようないでたちで、普通に、テイクアウトのカフェに並んでいる。

まるでコロナなどなかったような雰囲気だ。久しぶりにアシャーンに行ってみた。人の出入りは以前の半分といったところだろう。さすがにショッピングモールやスーパーに入ると、お客側もマスクや手袋をしている人の比率は高くなる。

それでも全員が守っているというわけではなさそうだ。

ロシア人は国民性なのか、どうかは別としても、今回のコロナを比較論としてあまり脅威に思っていないような印象を受ける。

致死率が比較的低く、医療崩壊などを起こしていないのか。それとも身の回りであまり重篤者がいないからか、また日本のメディアやSNSのようにフェイク含めた情報が氾濫しているのではなく、淡々と事実をとらえているからなのか。(少なくとも日本のワイドショー的な偏った盛り上がりはないと見受けられる:が実際にはロシア番組を全て見ているわけではないので実際のところはわからないが)

いずれにしても、来週からは自分もオフィスワークが始まる。まずは週2日から始めるというのが方針として決まった。

しかし、デジタル、リモートワークですっかり慣れてしまったので、オフィスに行く意味は仕事としてはどれだけあるのだろうか?という思いはある。

一方で、こうして会社として組織として、元に戻るのだという意思表明というか鼓舞する動きになるという側面はあるのだろうと思う。

人はやはり感情や気持ちで動くものだとつくづく感じたからだ。

 

未来大吉

ロシアンルーレットな未来:離れることによる人への記憶と思い

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ビーフストロガノフ

単身赴任、完全自宅自粛生活をすると、離れた人への考え方が変わってくるのが、わかる。端的にいうと、人の嫌な部分は忘れていき、良い部分だけしか思い出さないのである。人間とはよくできたものなんだなあと思う。

考えてみたら、卒業したら昔の友達、遠距離恋愛をしてもそう。

人は物理的にも時間的にも距離ができると、よい思い出しか残らない傾向があるのかもしれない。もちろんトラウマ的なことがあれば別だろうが。

それだとしても、嫌な部分は忘れて幸せになろうとするのが人の性なのだろう。

逆にいうと、物理的に近くにいると人間は、嫌な部分が見えてくるのかもしれない。

そう思うと、コロナの時代から、実は、そういうストレスや嫌な部分を感じる機会が減ることにより、人の心は少し穏やかになるのかもしれない。

それは、いくらネットだからといっても、どうしても物理的な空気を共有したい欲求と併せて、人に対してより、優しくなるような気がするのである。

 

未来大吉

ロシアンルーレットな未来:映画と音楽

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アボカドサラダ

 自粛期間は映画や音楽を楽しむ時間が結果的に増えてる。

従来の生活をしていたら観なかっただろう、または聴かなかっただろうものもトライする時間もでてくる。

隠れた名作やB級と言われる作品の中でも、めっけもんを見出す楽しみもあるのだ。

新たな発見もいいが、やはり、その人にとっての最高の映画や音楽というのは、最も多感な時代、年齢、場面に遭遇した時代のものになる。映画や音楽というのは、単にその作品の良さではなく、その時代に生きていた様々なことをBGMのように彩るものだから。だから多感な時代、小学校や中学、高校、また大学、社会に出たタイミング、また何か大きな決断をしたとき、そういう節目に出会った作品をこの年齢になって改めて観る、聴くというのは、格別な感動を呼び起こすものだ。だから、やはり、他人が思うそれと比較をできるものではない。自分も映画や音楽を若い時などは、いかにも”玄人”的に語ったこともあった。要するに、話す相手や万人もしくは一部のセンスの良い相手(と思われる)に対しむけての内容だ。なぜなら、そこには、自分だけが経験した人生を被せることがないからだ。その意味で、自分なりに多感だった子供のころから思い起こす作品というのは次のものかなあ。

上記に関してだけは、あくまで自分個人だけが自分の中で5感を刺激するほどの思い出が呼び起こされるものなのだ。

 

 

未来大吉

 

 

ロシアンルーレットな未来:自粛解除に向けて

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ステーキ&ワイン

 コロナ禍における各国の対応にあれやこれや言っても仕方ない部分がある。それぞれの事情で未経験なことに対して実践したことなのだから。

ここにきて日本も自粛解除の方向になっている。ステップを踏んで、業種や業態に応じて、解放のレベルを決めていく。そのことにより、被害を最低限に抑え込むという方針自体に反対するものではないし、それでいいと考えている。

しかし、一方で思うことだが、パチンコなどを例にあげても、実はクラスターが起こっていない。満員電車もそうだ。その要因としては、人間は、いかにも危険な環境だと判断した場合には、自然と通常以上に警戒をするからだと思う。

ましてや、今回コロナを経験し、恐怖は人々の心に染み込んでいるはず。

そうなると、実は、今、ステップとして後回しにされているいわゆる3密になりそうな業態、例えばカラオケとかクラブとかそういう業態においても、今後は、経営、運営側とお客様側で、自律的に感染防止の対策を打つようになるのではないかとも考える。

通常の感染防止を10のレベルとしたら、自分のところは15いや20しないとまずいのでは??と。そういう通常の経営リスク回避の判断をするのではないだろうか。

むしろ、自律的な対応を促すことで、コロナそのものに打ち勝つ体制と実力がつくのではなかろうか。

もちろん、ホリエモンvsネット民の闘いのように、おそらく現実的には、解放をしてしまうと、気の緩んだ人間や非常識な行動をとってしまう人間が出てくるだろう。だから、やはり国や自治体として制度やルールとしての規制が必要にはなるのは理解できる。

しかし、本当の意味でのコロナとの闘いは、リスクに放り込まれた人間の英知による克服でしかないような気はしているのだ。

 

未来大吉

ロシアンルーレットな未来:仕事とは”理想”と”現実”

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ステーキランチ

 仕事は一体何のためにやるのか?学生のときにも、そして50歳を超えた今でも、その時代時代に即して人は常に考えるものだと思う。

マズローの5段階欲求の上位層の方をあえて理想ととらえ、下位層を現実ととらえるなら、生きがいややりがい、仕事の意義を自分の思想や哲学に合わせて徹底的に模索していくことが理想に近い。そしてそれを突き詰めていくことは本当に重要なことである。一方、今日、明日、人間は毎日、食事をし、寝て、税金を納め、様々なことで所属している社会に対価として還元しないと生きていけないのである。それが生きる上での最低限の現実だ。

幼児なら、”将来はスーパーヒーローになりたい”でいいのだが、大学卒業まぎわでそれを言うひとはいないだろう。もうプロ野球選手やアイドルという現実的な職業ですら、自分が通ってきた道から外れたことは言わないはずだ。

親から守られてきた時が、あるタイミングで急に自分ひとりで社会に対価を戻さなくてはならない現実が覆いかぶさり、昨日まで語っていた”理想”などは吹き飛び、やっと入れた会社や組織がブラックだとしても、簡単にはやめられない。”現実”を生きていかないといけないからだ。そんなときに、仕事を哲学的に語っている暇はない。それが大人になるっていう側面だ。

そうやって、子供から大人になるにあたり、”理想”と”現実”の中での折り合いをつけて様々な選択をしていくのだ。

すなわち、”理想”からスタートしたことが大人になるにつれて”現実”を生きることになる。しかし、人生も折り返し、終盤に近付くと、また”理想”を徹底的に考えたくなるのだ。それは、ある程度、生活という現実が落ち着き、子供も巣立ち、必死になる”現実”が減ってくるのかもしれない。いや、この年金や老後の不安から考えると、その”現実”はいつまでも消えないのが実態でもある。

しかし、人生50年も”現実”を生きると、どこかで最後には”理想”を追い求めて、それでもしダメだとしたならば、意味なく延命をしてまでも”現実”を生きなくてもいいのでは?という考えが多少でてくる。

生きるか死ぬかという現実の話というより、やはり、最後の方になれば、本当の意味において仕事をするという”理想”を考えてみることが大事になると思う。

大人になってからの”理想”は決して「スーパーヒーローになりたい」という類のものではなくなっており、成熟された内面の課題を考えられるようになるからだと思う。

 

未来大吉

ロシアンルーレットな未来:孤独死

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Living Room

 コロナでロシアで単身赴任自宅待機期間が長くなる。突然「孤独死」への理解が深まった気がした。ロシアで自宅で家族はいない。外にもほとんど出ない。もちろん近所の付き合いもなければ、プライベートを共有するような日本人の知り合いいない。

ただネットのありがたみで、物理的に離れている家族や友人とはつながる。そして幸いにも月曜から金曜日は在宅ではあるが、ここロシアの会社での仕事がある。

それ以外は、とにかく外出をすることがないので、毎日の生活を粛々としている。朝起き、顔を洗い、食事をし、炊事、洗濯、掃除、買い物、基本的な生活を淡々を遂行していく。ふと考えたのだ。もし、それで、週5の仕事がなかったとしよう。そしてつながる家族がなかったとしよう。プライベートを共有する友人がいなかったとしよう。

淡々と生活を進めていく。もちろん、それでも衣食住がそろっていることは最低限の贅沢だとも考える。しかし、そんなことを繰り返していくと、自分はなんのために生きているのだろうと考えることも想像できる。思うことは過去の楽しい思い出。未来はもう描けない。そしてなによりも、そういう思いや考えを共有できる人との繋がりを実感できなくなったときに、”別に死んでももういいのかな”って思うこともある気がする。

この世にたった一回しかない人生なんだから、限りあるだけ大切に過ごしていきたいと思う考えは当然だ。しかし、人は”孤独”を感じたときには生きる目的を失うのだろうと思う。”おひとり様”や”単独行動”が好きな人が多いのはよくわかる。自分自身がそうだからだ。しかし、孤独と単独はあきらかに違う。単独は世の中とはつながっているのだ。ゾンビ映画で、人が希望をもって生きようとするのは、きっとどこかに同じように生きている人がいると信じられるから。もし、地球の人類が滅亡したとわかったら、その瞬間生きる希望は消え去るのだろう。映画”猿の惑星”の最後でチャールストンヘストン演じる宇宙飛行士が感じたように。

 

 未来大吉

 

ロシアンルーレットな未来:黒川検事長の賭けマージャン

 

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イクラ スモークサーモンパスタ

コロナのごたごたのなか、政権批判・政権交代の周りの動きが過度な気がする。いい例が黒川検事長の賭けマージャン問題。この件については、いろんな本質的問題が含んでいるようだ。三権分立、政権、メディアと検察、検察そのもの、公務員の定年、そこに来て、最後の終わらせ方が、「賭けマージャン」だ。国家を取り締まる検察のトップが低レートだろうと賭けマージャンをしているということが露呈してしまえば、表向きはどうあがいても非難されることは仕方ない。

しかし、こういうことで、全ての本質が隠蔽されてしまう気がする。ものすごく引いて考えれば、許されないことではあるが、実態としては、メディアの記者と裏で関係を持ってもちつもたれつなどはどこの世界でもやっていることだ。食事だろうと麻雀だろうと。そして麻雀であるが、そりゃある程度のお金をかけることは現実あるだろう。高校生の麻雀だってやるだろうし、教員でもみんなそうだろう。車を運転していたら、制限速度から数キロから10キロ程度のスピードオーバーは平均値であり、おそらく100%のドライバーが制限時速を守って運転していることなどありえないだろう。

黒川検事長がもし賭けマージャンをしていなかったとしても、どこかで立ちしょんをした。昔、こんなことをしていた。云々で結局たたかれていただろう。要するに全てが今現在の政権を非難することに準備されていたことであり、そういう本質がある。そこには当然、メディアと検察の関係や、その裏世界、もっと言うと、コロナそのものにもつながるのだが、国と国との覇権争いから派生するような問題なんだと考える。

黒川検事長の賭けマージャンは、決して許されることではない。しかし、警察官や公務員で麻雀を賭けていなくやっていると本当に国民は信じているのだろうか?それで黒川さんだけがそうしていることで、憤っているのだろうか?

そのムードのようなことこそが怖い気がする。

言ってしまえば、もし、本件の本質が検事長のテンピンの賭けマージャンだというなら、そんなどうでもいいことを国会や国民で騒ぐなと言いたい。

だから、そういう表向きなことでごまかすことなく、本質はなんなんだ?ということを議論してもらいたいものだが、それが絶対に見えてこない。

タブーとなっている世界で騒いでいるだけなのだ。

 

 未来大吉