人間も50年以上やっていると、自分の人生を振り返って、ふと思うことが沢山ある。そんな中で、人生を自分が主役のドラマと捉えたなら、青春もの、学園もの、恋愛もの、企業もの、社会派ドラマ、オカルトやファンタジー様々なことがあったとしても、そのドラマの共演者は必然的に変化していることがわかる。
そしてそのドラマのど真ん中で役柄を演じているときには、それが自分の全ての世界だと思い、時には「もう自分はダメかもしれない」と人は思ってしまうもののような気がする。しかし、引いて考えたら、そのドラマが終われば、きっとその共演者とは会うことはなく、また新しいドラマがクランクインするのだ。人生というドラマはそういうものだと考えている。
企業などで働いていると、近々の人間関係が全てであり、そこでの悩みや懸念などはずっと消えないと思い込んでしまうことがある。しかし、実際にはそんなことはない。こうしてロシアという場所にきて日本から離れて自分と自分を取り巻く世界を見ると更にその思いは巡ってくる。昔偉かった人はすでに引退し、もう見ることもなくなる。そして今現役でトップでいる人たちも自分が帰国するころにはもういないかもしれない。そして自分の周りには昨日までは出会うことのなかったロシア現地人スタッフがいるのである。自分をドラマの主人公と見立てたら、スタッフも東京のお偉いさんも、単なる脇役でしかないのである。そう考えると、人は何を恐れたり、時には権力に迎合しようとしたりするのだろう。それがあったとしても、それはあくまでも役柄としての自分が演じていればよいことであり、自分という人間の本質まで入り込ませなければいいのだと思う。そう自分がある一面の自分を演じているのである。
そして売れっ子の自分は同じクールでいくつかのドラマを掛け持ちしているのである。
そう考えると、あるドラマで悲しい役割を演じたからといって家にまで持ち帰る必要なない。切り替えて、また違うドラマの自分を演じていけばよいのだ。
そして全ての自分のドラマに共演してくれる脇役俳優さんたちをありがたく思おう。それが悪役だとしても必要な役回りであり、台本に記されているだけだ。
その役者さん本人までを恨む必要などないのだ。
人生には様々な登場人物が現れる。そしてそれが一生続くということはかなりまれなことなのである。それが家族だと多少長いのだが、それも全ての時間ではない。
未来大吉